Saturday, 16 October 2010

富士山と富士吉田 


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今回の短い里帰りの間、たった半日でしたが富士吉田に行く用事があり、家族で行ってまいりました。
車から降りた瞬間、あの独特の「冬の匂い」がしてハッとしました。
富士山の上ではもう雪が降ったので(今年の初雪は9月25日)、雪の匂いが一足早く山から下りてきているのかなと思いました。

甲府盆地では恐怖の?「八ヶ岳下ろし」というのが、冬になるとやってきます。
八ヶ岳から雪の湿り気を帯びた寒風が吹いてくるのですが、八ヶ岳の山々が雪模様だと、甲府盆地では晴れていても雪が風に舞う日があります。
それをふと思い出して、「富士吉田でも富士山からの雪が舞う日があるのかな。」と思ったりしました。

そして、水道の水の冷たいこと!
タイのぬるま湯に慣らされていた体に、渇が入りました(笑)。

甲府からはちらりとも富士山が見えない日が続いたので、富士山の麓まで行ったら見えるかと淡い期待を抱いていたのですが、まったく富士山は見えずじまい。
結局一度も富士山を見ることのないまま、日本を後にしました。

富士山の写真家として有名な岡田紅陽(1895~1972)は、富士山を富士子と呼び、類まれにみる「妖麗な美人」だが「神経質」で「気むずかしい恋人」だと評していました。見たい時にいい表情をしてくれない・・・富士山とはそういう山なのです。

以前の記事でも富士山について書きましたが、今日は「富士山と富士吉田」について考えてみたいと思います。
志村君が生まれ育った街、富士吉田市と富士山との深い結びつきをみてみましょう。

富士山は、およそ10万年前に始まった火山活動によって噴火を繰り返しながら成長し、今の形になりました。海岸からせりあがる独特の円錐形。末広がりの裾野の形は、世界でも珍しい美形と言われています。
平安時代、富士山北麓(富士吉田市のある地方)では大噴火が起き、70メートルの厚さの溶岩が麓の家々を焼き尽くしました。その時、荒ぶる山の神の怒りを鎮めるため、天皇の命により浅間神社が建立されました。

富士吉田に志村君の足跡を求めていらっしゃったファンの方の中にも、浅間神社をお参りされた方がいらっしゃると思いますが、日本全国には1300ほど富士山の神様を祭った浅間神社があります。祭神は、木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)の命です。

富士吉田市は、信仰の街でもあります。
日本では室町時代(1336-1573)、すでに富士山信仰があったといわれています。
富士山は日本最高峰であることから、極楽浄土に最も近い神聖な場所とされ、信仰の対象になってきました。
年間30万人もの人が富士山に登り、ご来光を拝むため夜明け前の2時間、頂上までの道が大渋滞するのも、このような日本人の信仰が関係しています。(ご来光を拝むのは、神道と深く関係しています。)

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江戸時代には「富士講」という富士山信仰が確立され、富士吉田は富士講信者の街として大変栄えました。ひと夏に8000人の信者が、富士吉田の大通りに80件ほどあった御師宿坊(一般の家屋を広げたもので、裏座敷といわれる建物に信者が宿泊。ご神前の間には、道者と呼ばれる富士講の信者と御師しか入室を許されなかった)に宿泊し、祈祷師でもある御師に富士登山のしきたりや富士講の教えを学びました。

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富士吉田の大通りにある金鳥居をご覧になった方も多いと思いますが、富士講信者は必ずあの金鳥居を通ってからでないと、富士登山が許されていませんでした。俗界と富士山の神聖な世界との境界の意味があります。

白装束を身にまとい登山する姿は外国人にも興味深く映ったらしく、小泉八雲は六根清浄(心身を清める祈り)を唱えながら山を登る道者たちを、「白い蟻」と称しました。イエズス会の宣教師も日本の宗教のひとつとして描写し、自国に報告しています。
大勢の剛力(自力で富士登山できないひとを、かついで昇る人たち)も富士吉田にはいたのでしょう。

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富士吉田の人たちにとって、富士山は畏敬の念の対象であり、生活に溶け込んだ母なる山なのです。
志村君がフジファブリックというバンド名をずっと使い続けた気持ち、忠霊塔で富士山にたてた誓い。「志村日記」にも富士山噴火の心配や、2008年凱旋ライブの時に自分を迎えてくれた富士山の話を書いていますが、心の中の大きい支えだったに違いありません。

明日は、富士吉田と稲作について書きたいと思います。

今日の一曲は、「浮雲」です。


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