フジファブリックの志村正彦くんを思い出すとき、いつでも浮かぶのがこの富士山です。
個人的にも今週は、家族が入院するという不慮の出来事があったため、富士山に元気をもらいたい気分。
今日はこの壮大なテーマ「富士山」です。
外国に住む日本人にとって、日本を出たその時から、突然存在感を増すのが富士山です。
日本についてほとんど知識のない外国人でも、大抵「Fuji」は知っていて、日本人向けの場所や商品に「ふじ」の名前が使われる頻度も、日本国内より断然高いからです。
バンコクにある日本人御用達のスーパーも、例にもれず「フジスーパー」といいます(笑)。
そして山梨県・静岡県出身の私たちにとって、富士山はいつでも心の中にある原風景であり守護神であります。
我が家の寝室には、富士山の写真が飾ってあります。
悲しい事や辛い事があった時、富士山を見るとなんとなくどうにかなるような気がするのです。
富士山の近くで過ごした時間より、遠く離れてしまった時間のほうが長くなってしまった今でも、こうして慰め励ましてくれる存在です。
一般論の富士山は後日書くことにしまして、今日は私の個人的な思いも含めた富士について書きたいと思います。
今年5月18日、山梨日日新聞社と静岡新聞社が「富士山新聞」を発刊しました。
富士山とのつながりを再認識するという目的で配布されましたが、両県民にとって富士山以上に出身県を誇れるものはきっとないでしょう。
山梨を離れるまで、まったく意識もしていなかったのに不思議なものです。
富士山新聞の中で、「移民たちの富士」という記事に特に心打たれました。
山梨県からも戦後、多くの方が南米へ移民されました。
「最後に一目富士山を見たかった。」といって亡くなる方たちが多かったため、藤川氏が私財を投げ打って、伊豆大島の富士を見晴らせる山林に富士見観音像を建立されました。
どのような思いで、皆さんがんばっていらしたのでしょうか。
私の育った甲府では、天気によっては見えない富士山ですが、子供ながらにも季節を富士山で感じていたのを覚えています。
梅雨時には長い期間姿を見せてくれないのですが、梅雨明けすると突然、雪のとけた夏姿に衣替えした富士が南の山間に見えるようになります。
そして左肩にポツリポツリと灯りが見えると、夏山シーズンなんだと思ったものです。
天候、季節、時刻で刻々と変化する富士山は、見えそうな日に見えなかったり、見えないと思っていた日に勇姿を見せたりと、気まぐれな印象がありました。
季節だけでなく、方向も富士山を見ればすぐわかります。
富士山はいつでも南にあるので、甲府盆地を移動していても自分がどの方向に移動しているかがちゃんとわかるのです。
昨今、タイは空前の日本ブームですが、皆さん口を揃えて「富士に桜が見てみたい。」とおっしゃいます。
そして「私は富士山のある県の出身です。」という時ほど、「山梨に生まれてよかった。」と誇らしく思うことはないのです。
きっと志村君も同じような心境だったのではないでしょうか。
フジファブリックというバンド名を使い続けていたことだけでも、故郷への思いが伝わってくるように思います。
きっと様々なことが富士吉田にいる18年間にあっただろうけれど、出来事や登場する人々を全部ひっくるめて大好きだった故郷に違いありません。
そしてその故郷にはいつでもあの富士山が、人間の営みなんかまるで関係ないように、構えていたのでしょう。
富士山麓には独特の自然が広がります。
山梨県は自然の豊かな土地柄ですが、富士周辺の自然は他とはまったく違う印象を山梨県民ももっています。
とても神聖な場所であるからこそ、厳しい自然が広がります。
国中(甲府)の私たちにとっても県外の方々と同様、富士吉田は富士山のある町という印象が強いものです。
初めての友達との遠出が「富士急ハイランド」という学生時代の思い出がある甲府の方、結構多いのではないでしょうか。
バスに乗って、御坂峠を越えたときに突然ドーーーンと迫ってくる富士山。
初めて「富士山ってきれいだな。」と思った瞬間かもしれません。
志村君が、あの街のあの場所のあの自然の中に生まれ育まれたことによって、今私たちはフジファブリックの恩恵に預かっているといっても過言ではないと思います。
感謝の気持ちでいっぱいです。
1月末に執り行われたお別れ会、私は出席できませんでしたが、きれいなお花の富士山の上にいる志村君を写真で見て、「志村君、富士山に還ったんだな。」と思いました。
きっとこれからも、いつでも変わらずそこにいる富士山と共に、私たちを見守ってくれることでしょう。
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