Wednesday, 19 January 2011

Day Dripper ぐるぐるの歌詞

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前回に引き続き、「Surfer King」のB面、「Day Dripper」です。
今日はフジファブリックの魅力の一つ、歌詞をみてみましょう。

・・・といいましても、大混乱が魅力のこの曲は、歌詞においてもそのぐるぐる感を表現するためか、言葉遊びのような歌詞が目に付きます。

リスナーの皆さん一人ひとりが自分の思いを投影しやすくするために、志村君が知恵を絞って作った歌詞なので、私の思いを書くのは気が引けますが、外国のファンの方のためにも「煩悩が僕を今日も突き動かして」というところだけ、注釈させていただきます。



まず、「煩悩」についてです。
仏教国に住んでいる方たちには、比較的なじみのある言葉だと思いますが、これは仏教の言葉で「心身を乱し悩ませる、悟りに達するのを妨げるもの」を、指します。
日本のお寺では大晦日の晩、夜12時を挟む時間に寺院にある鐘を108回撞く「除夜の鐘」という年中行事があります。
NHKの国際放送でも、「ゆく年くる年」という番組の中で日本各地の寺院で鐘が撞かれる様子が中継され、世界に向けて発信されています。

なぜ108回なのかには諸説ありますが、よく知られているのは「人間の持っている煩悩の数」という説です。この除夜の鐘という行事があるおかげで、冠婚葬祭のときぐらいにしか宗教を意識しない日本人が多い中、こんな時代でも「煩悩」という仏教の言葉が案外一般的にも知られているのではないでしょうか。

煩悩は、我執(自己中心の考え、それにもとづく事物への執着)から生ずると考えられています。
仏教では、生まれてくることも、生きることも、病気になることも、老いることも、死ぬことも「苦」であるといいます。
人間はどうしても常に何かに執着をもった生活を送ってしまい、特に自分自身と自分の所有へのとらわれが毎日の生活に「苦」を感じずにはいられないものにしているからだと、仏教の教えは諭します。
生きることを渇望する心であったり、死んでしまいたいと思う心。
自分のことだけでなく、人の生命を願い、また逆に呪うことが、煩悩の根源であるというのです。

この仏教の教義を踏まえて、「Day Dripper」の中の「煩悩が僕を今日も突き動かして」という一節を考えてみると、とても意味の深いものだと思いませんか。

煩悩は悟りに達するのを妨げる元であることは事実だと思いますが、その反面、悟りを得ていない凡人の私たちにとって、何かをしようという活力になることもやはりあるのではないでしょうか。
生命維持も子孫繁栄も、煩悩が完全に滅却できてしまうと、動物としての人間と考えるときかなり難しいでしょう。

ロックなんかは、その典型だと思うのです。

志村君は、「世の中のこんなところが嫌い!反対!といって叫ぶのは、ロックの一番恥ずかしいところ。」と、以前恥ずかしそうにインタビューで言っていましたが、仏教の教義で考えるとこれもまさしく煩悩のひとつです。
社会に対しての反骨精神がロックの基礎になっていることは、ビートルズやジョン・レノンなどをみても明らかです。(フジファブリックの音楽の場合は、そうでない曲も多いのが魅力でありますが)
「何をしたい」「あれがこうなればいいのに」という気持ちにとらわれすぎれば毒になりますが、時にはそういう気持ちが人間を動かす大きな活力にもなると思うのです。


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「Day Dripper」には、真実味のない言葉をたくさん言ったり、粋な言葉で愛を語ったり、電話で壁を掘ったり(これはちょっと違うかな・・・)、ありふれた場所に君を誘い出したり、ぐるぐるぐるぐる「コーヒーにミルクが混ざるときみたいに」変なことが次から次へと出てくるのですが、「煩悩が今日も僕を突き動かして」という一節で今までのへんてこがすっと落ち着くような気がしました。


でも志村君に、「言葉の音感を楽しもうと思っただけで、そんな深い意味なんかない。」と冷静に一言言われそうですね!
理屈はともかく、ぜひフジファブリックらしいナンバー 「Day Dripper」 
お聴きください!!

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