Saturday 25 September 2010

笑ってサヨナラ 日本人の微笑 

You Tubeで「笑ってサヨナラ」を検索すると、フジファブリックファンの皆さんが特別な思いをもってコメントを書いていらっしゃることに気がつきます。
この「笑って」サヨナラをするということが、深く私たちの心を打つのです。

なぜでしょうか。



タイは「微笑みの国」と呼ばれ、事実タイ人は誰に会っても人懐こい笑顔で笑いかけてくれます。
日本人としてはとても心地よいのですが、タイにいる来たばかりの白人は、「あの笑顔で問題をごまかし、責任逃れをする。言語が分かり合えないことをごまかす笑顔」と解釈する人も多いのです。

微笑みの意味は、世界共通ではないのでしょうか。


小泉八雲は、明治時代に書いた「日本人の微笑」という随筆の中で、多くの白人が日本人の笑みに違和感を覚えるのは、苦痛や、恥辱や、失望に陥った時などの際にも、いつもと変わらぬ微笑を浮かべている時だと指摘しています。

現代を生きる日本人としても、十分思い当たります。


そしてその微笑について、「日本人は両親や、身内や、先生や友達や、好意を寄せる人たちにできるだけ、自分の気持ちのいい顔を見せるのが生活のしきたりである。」としています。

さらに、「世間の人々に絶えず幸せそうな顔をみせ、他人にできるだけ不愉快な思いをさせないようにするのが礼儀であり、胸が張り裂けそうな時でも、人様の前で深刻な顔をしたり、不幸な顔をすることは自分に好意をもってくれる人に不安や苦痛をあたえるため非礼にあたる。」。

日本人はそのように幼いときから教えられ、その微笑は本能的なものにまで昇華される、と八雲は理解しました。

日本人の微笑の謎を解く鍵は、日本人の礼儀正しさだというのです。
これは心の仮面としての「冷笑」ではなく、相手を思いやる気持ちからくる作法であるという見解です。

私もまったく同感です。

芥川龍之介の作品だったと思うのですが、息子を亡くした母を小説があります。
客人が息子さんを亡くしたことに対してお悔やみを述べていると、母親はただただ微笑を浮かべて客人に礼をいいます。
「このお母さんは一人息子さんを亡くしたというのに、どういうわけか。」と客人が思い、ふと床に落としたものを取ろうとテーブルの下を見ると、悲しみを懸命にこらえながらハンカチを震える手で千切れるほど握りしめる母の手がありました。
それを見て、初めてその母の悲しみの深さを知った、というあらすじでした。

これこそ悲痛を前にした日本人の笑みではないでしょうか。
微笑の奥にある悲しみは、計り知れない深い悲しみなのです。
そして、その笑みを見た者は、背筋を正されるような美しさをその中に感じます。



フジファブリックの「笑ってサヨナラ」にも同じことを、私は感じました。

恋人と別れるのが、嬉しくて笑っているわけではないというのは、日本人だったらすぐに分かります。
短い時間だったかもしれないけど、恋人同士として共に時間をすごし、愛した恋人。
その彼女とサヨナラすることになったけれども、最後に大好きだった彼女に嫌な思いをして欲しくない。
二人で過ごす最後の時に、美しく終止符を打ちたい。
そのための微笑だったのではないでしょうか。

そのため、別れの後、僕は一人で何週間もいろいろ考え悩み、自分の間違い探しをしているのです。

「やせ我慢」ではありません。
相手を思いやる崇高な気持ちからきた「微笑」、日本人特有の美意識と礼法からくる最高の笑みです。

私たちも今日だけは涙を拭いて、最高の笑みを志村君に見せながら、この曲が聴けたらいいですね。
フジファブリック 「笑ってさよなら」です。


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