(河口湖から見た富士山)
さて、予想以上に長くなってしまったこの企画展レポートも、いよいよ最終回となりました。
今日は、展示会場外にあった展示物をご紹介致しましょう。
実行委員の予想を上回る来場者の多さ(山梨日日新聞によると、約2000人の方がご来場下さいました)に、まず驚きました。会場は3階でしたが、1階のロビーまで続く長蛇の列。こんな札も、会場内の階段に貼られました。
同級生の皆さんの心遣いが、憎いですね。
そんな長い待ち時間の中、ファンの皆さんが壁に貼られた高校生の小論文を、一生懸命読んでいるのが見受けられました。
あの文章は、山梨県立甲府城西高校の小林一之教諭が指導する、生徒さんの小論文です。(学校案内はこちら 山梨県立甲府城西高等学校)志村正彦君の書く歌詞が、「小論文演習」という授業の中で取り上げられ、その様子が山梨日日新聞の記事にもなりました(平成23年6月30日付)。以前、このブログでも皆様に紹介しましたので、ご記憶の方もいらっしゃるかと思います。(2011年7月5日記事)
この企画展にあたり、小林先生と生徒さんが新たに書き下ろして下さった文章が、階段の壁に展示されました。ここでは小林先生がお書きになった文を、ご紹介したいと思います。
志村正彦の夏 小林一之
志村正彦にとって、夏は特別な季節である。夏を舞台としない歌の中でも、時に触れられることがある。
短い夏が終わったのに 今 子供のころのさびしさが無い (『茜色の夕日』)
冷夏が続いたせいか今年は なんだか時が進むのが早い (『赤黄色の金木犀』)
真夏のピークが去った 天気予報士がテレビで言ってた (『若者のすべて』)
「短い夏」「冷夏」そして「真夏のピーク」。夏はいつものように過ぎ去るが、彼は佇立し続ける。彼はたたずみ、季節を言葉と音に織り込んでいく。夏の記憶の織物は、フジファブリックの作品となって、ここ十年の間、私たちに贈られてきた。中でも『陽炎』は志村にしか表現しえない世界を確立した歌である。
あの街並 思い出したときに何故だか浮かんだ
英雄気取った 路地裏の僕がぼんやり見えたよ (『陽炎』)
夏は、想いの季節である。夏そのものが私たちに何かを想起させる。「街並」「路地裏」という場。「英雄」、幼少時代の光景。楽しかったり、寂しかったりした記憶が「次から次へ」と浮かんでくる。
夏は、ざわめきの季節でもある。人も、物も、風景も、時もざわめく。「陽」が「照りつけ」ると共に、何かが動き出す。そのとき、「陽炎」が揺れる。
窓からそっと手を出して やんでた雨に気付いて
慌てて家を飛び出して そのうち陽が照りつけて
遠くで陽炎が揺れてる 陽炎が揺れてる (同)
『陽炎』はここで転調し、詩人の現在に焦点があてられる。
きっと今では無くなったものもたくさんあるだろう
きっとそれでもあの人は変わらず過ごしているだろう
またそうこうしているうち次から次へと浮かんだ
出来事が 胸を締めつける (同)
今では「無くなったもの」とは何か。特定の他者なのか。風景なのか。十代や青春という時間なのか。あるいは、過去の詩人そのものなのか。そのすべてであり、すべてでないような、つねにすでに失われている何かが「無くなったもの」ではないのか、などと囁いてみたくなる。
喪失という主題は青春の詩によく現れるが、大半は、失ったものへの想いというより、失ったものを悲しむ自分への想いに重心が置かれる。凡庸な詩人の場合、喪失感は自己愛的な憐憫に収束するが、志村の場合は異なる。彼の詩には、そのような自己憐憫とは切り離された、失ったものそのものへの深い愛情と、失ったものへ、時に遠ざかり、時に近づいていく、抑制された衝動がある。そして、喪失を喪失のままに、むしろ喪失を生きなおすように、喪失を詩に刻んでいった。それは彼の強固な意志と自恃に支えられていたが、「胸を締めつける」ような過酷な歩みでもあった。
四十年を超える日本語のロックの歴史の中で、志村正彦は絶対的に孤独である。その孤独ゆえに、今、私たち一人ひとりとつながり続ける、永遠の作品として屹立している。
寒冷地、富士吉田の地で、「夏」は短く儚い季節です。だからこそ、「生」と「動」脈動の季節への賛美や喪失感が、より強いのかもしれません。志村君の作り出す歌詞、特に自然に対しての独特な感性は、日本の俳句や短歌の世界と共通するものが多く、世界に誇る文学作品の一つだと私は常々思っています。
小林先生の語彙力豊かな日本語を読むと、フジファブリックの歌詞世界の素晴らしさが、より深く理解できると思います。他の曲についても、ぜひ読ませていただきたいと思いました。
授業のためにフジファブリックの曲を聴いたのがきっかけで、ファンになったという生徒さんたちがとても多かったのは、フジファブリックファンとしてとても嬉しいことでした。
生徒の皆さんは、私の予想以上にとても深く歌詞を読み、曲を聞き込んでいらっしゃって、「陽炎」「赤黄色の金木犀」「若者のすべて」(授業で扱った曲)を通して、自分自身を投影させ、志村君の伝えたかったことを想像して書いているのが伝わってくる文章ばかりでした。
志村君の曲は、全く聴き手を限定しません。
生まれ育った地元で多感な時期を迎えている高校生にも、遠くふるさとを離れて暮らす私のような境遇の人にも、両方の心に響く歌がある。
それだけで、すごいことだと思うのです。
これからも折をみて、甲府城西高校 小論文演習クラスでの「志村正彦の歌を語りあう、授業の試み」について、このブログでお伝えできたらと思います。
会場を後にして、てくてく下吉田駅に歩いていくと・・・。同級生の仕掛けたビッグサプライズが!下吉田駅隣の駅カフェに展示されていた、志村君のカブです。シークレットサプライズとして展示されたのですが、大勢のファンが見に行ってくれました。
日記にもでてくる一度盗まれたというカブ。(「東京、音楽、ロックンロール」2009年9月参照)そう、志村君を「無駄にプチセレブ」にしたあのカブです。同級生W画伯の絵付きで、展示されました。下吉田駅の壁面と志村君のカブ、同じような色だったのですね。
実物の写真が、2012年1月25日付 山梨日日新聞電子夕刊に掲載されていますので、そちらをご参照ください。山梨日日新聞電子版
ここでもう一つ、今までの記事に補足です。
大人気だった「赤ベンチトーク」について、ファンの皆様から「ぜひ文字起こししてください!」というリクエストをたくさん頂きました。私の正直な気持ちを申しますと・・・あの赤ベンチトークは、実際志村君と同級生が昔、座ってよく話をしていたという木製ベンチを目の前に、左右後ろを志村君の昔の写真や思い出の品々に囲まれて、胸がいっぱいになってしまった時、同級生がとても楽しそうに語るまさひこくんとの思い出話が、何処からともなく流れてくる・・・というところに最大の意味があったと思うのです。
録音されていたトークを文字に起こせば、その時点でほとんどの価値を失ったといっても過言ではないでしょう。
ただ企画展に来られなかったファンのお気持ちもよくわかりますので、一つだけ思い出エピソードをご紹介させていただきます。
下吉田中学時代、文化祭のときのこと。同級生皆で、TOKIOのデビュー曲「Love You Only」を歌ったのですが、まさひこはバックコーラス担当でした。今にして思えば、後々フジファブリック ボーカル・ギター担当のまさひこが、バックコーラス・・・?と、思うけど、あの時は本人も含め、同級生も誰一人、まさひこがバンドのボーカルになるなんて考えていなかったからな。
・・・というものでした。
志村君が東京に行って「フジファブリック 志村正彦」になったということを知ってはいるけれど、同級生の心の中ではいつでも「同級生のまさひこ」のままなのです。そしてこれからも、「まさひこ」はずっとずっと彼らの仲間でい続けるのですから、公の場である「赤ベンチトーク」で語られたエピソードは、当然「正しい同級生の語らい」です!
6回にわたって書いてきましたこの企画展レポート、今日で終了致します。
拙いレポートでしたが、読んで頂きありがとうございました。企画展に来たかったけど来られなかったファンの皆さん、楽しんでいただけましたでしょうか。
正直な気持ちを申しますと、志村正彦ファンにはやはり富士吉田の街に一度は来ていただきたいと思います。なぜなら楽曲の根底に流れるものや、志村正彦の持つ真の魅力は、やはり富士吉田の地で生まれ育まれたものだと思うからです。あの街の風、空気、日差し、雨、草木や花、そして人々に触れて、それを肌で感じていただきたいと心から願います。
志村君と彼の書く音楽の魅力は、とても書き尽くせるものではありませんが、この企画展を通して特に強く感じたことがありました。
それは志村君という人は、ごくごく「普通」の環境で、「普通」に育てられたこと。それが彼独特の繊細な感性をもって、天才的な音楽性と文才を通し表現されたこと。そしてその陰には、強固な意志と、凡人には真似もできない努力があったこと。
だからこそ、彼の人となり、彼の作った音楽は今なお多くの人の心を打ち、ファンが増え続けていっているのだと思います。
「あなたと出会えてよかった」と同時に、「一度だけでも会いたかった」という複雑に入り混じった気持ちを抱えて、これからももっともっとファンは増えていくことでしょう。
最後に・・・。
このブログの記事を書くにあたって、快く作品の掲載を許して下さった甲府西高の赤池先生、美術部員の皆さん、城西高校の小林先生、ありがとうございました。
また展示品の説明文を監修して下さった実行委員代表、英訳監修をしてくれた親友セリーヌ。
ありがとうございました。
「志村正彦展」は、私の一生の思い出となりました。感謝の気持ちでいっぱいです。
これからも皆さんと一緒に、志村正彦君が大きく世界に羽ばたいていく姿を、見続けたいと思います。
ありがとうございました。
さて、予想以上に長くなってしまったこの企画展レポートも、いよいよ最終回となりました。
今日は、展示会場外にあった展示物をご紹介致しましょう。
実行委員の予想を上回る来場者の多さ(山梨日日新聞によると、約2000人の方がご来場下さいました)に、まず驚きました。会場は3階でしたが、1階のロビーまで続く長蛇の列。こんな札も、会場内の階段に貼られました。
同級生の皆さんの心遣いが、憎いですね。
そんな長い待ち時間の中、ファンの皆さんが壁に貼られた高校生の小論文を、一生懸命読んでいるのが見受けられました。
あの文章は、山梨県立甲府城西高校の小林一之教諭が指導する、生徒さんの小論文です。(学校案内はこちら 山梨県立甲府城西高等学校)志村正彦君の書く歌詞が、「小論文演習」という授業の中で取り上げられ、その様子が山梨日日新聞の記事にもなりました(平成23年6月30日付)。以前、このブログでも皆様に紹介しましたので、ご記憶の方もいらっしゃるかと思います。(2011年7月5日記事)
この企画展にあたり、小林先生と生徒さんが新たに書き下ろして下さった文章が、階段の壁に展示されました。ここでは小林先生がお書きになった文を、ご紹介したいと思います。
志村正彦の夏 小林一之
志村正彦にとって、夏は特別な季節である。夏を舞台としない歌の中でも、時に触れられることがある。
短い夏が終わったのに 今 子供のころのさびしさが無い (『茜色の夕日』)
冷夏が続いたせいか今年は なんだか時が進むのが早い (『赤黄色の金木犀』)
真夏のピークが去った 天気予報士がテレビで言ってた (『若者のすべて』)
「短い夏」「冷夏」そして「真夏のピーク」。夏はいつものように過ぎ去るが、彼は佇立し続ける。彼はたたずみ、季節を言葉と音に織り込んでいく。夏の記憶の織物は、フジファブリックの作品となって、ここ十年の間、私たちに贈られてきた。中でも『陽炎』は志村にしか表現しえない世界を確立した歌である。
あの街並 思い出したときに何故だか浮かんだ
英雄気取った 路地裏の僕がぼんやり見えたよ (『陽炎』)
夏は、想いの季節である。夏そのものが私たちに何かを想起させる。「街並」「路地裏」という場。「英雄」、幼少時代の光景。楽しかったり、寂しかったりした記憶が「次から次へ」と浮かんでくる。
夏は、ざわめきの季節でもある。人も、物も、風景も、時もざわめく。「陽」が「照りつけ」ると共に、何かが動き出す。そのとき、「陽炎」が揺れる。
窓からそっと手を出して やんでた雨に気付いて
慌てて家を飛び出して そのうち陽が照りつけて
遠くで陽炎が揺れてる 陽炎が揺れてる (同)
『陽炎』はここで転調し、詩人の現在に焦点があてられる。
きっと今では無くなったものもたくさんあるだろう
きっとそれでもあの人は変わらず過ごしているだろう
またそうこうしているうち次から次へと浮かんだ
出来事が 胸を締めつける (同)
今では「無くなったもの」とは何か。特定の他者なのか。風景なのか。十代や青春という時間なのか。あるいは、過去の詩人そのものなのか。そのすべてであり、すべてでないような、つねにすでに失われている何かが「無くなったもの」ではないのか、などと囁いてみたくなる。
喪失という主題は青春の詩によく現れるが、大半は、失ったものへの想いというより、失ったものを悲しむ自分への想いに重心が置かれる。凡庸な詩人の場合、喪失感は自己愛的な憐憫に収束するが、志村の場合は異なる。彼の詩には、そのような自己憐憫とは切り離された、失ったものそのものへの深い愛情と、失ったものへ、時に遠ざかり、時に近づいていく、抑制された衝動がある。そして、喪失を喪失のままに、むしろ喪失を生きなおすように、喪失を詩に刻んでいった。それは彼の強固な意志と自恃に支えられていたが、「胸を締めつける」ような過酷な歩みでもあった。
四十年を超える日本語のロックの歴史の中で、志村正彦は絶対的に孤独である。その孤独ゆえに、今、私たち一人ひとりとつながり続ける、永遠の作品として屹立している。
寒冷地、富士吉田の地で、「夏」は短く儚い季節です。だからこそ、「生」と「動」脈動の季節への賛美や喪失感が、より強いのかもしれません。志村君の作り出す歌詞、特に自然に対しての独特な感性は、日本の俳句や短歌の世界と共通するものが多く、世界に誇る文学作品の一つだと私は常々思っています。
小林先生の語彙力豊かな日本語を読むと、フジファブリックの歌詞世界の素晴らしさが、より深く理解できると思います。他の曲についても、ぜひ読ませていただきたいと思いました。
授業のためにフジファブリックの曲を聴いたのがきっかけで、ファンになったという生徒さんたちがとても多かったのは、フジファブリックファンとしてとても嬉しいことでした。
生徒の皆さんは、私の予想以上にとても深く歌詞を読み、曲を聞き込んでいらっしゃって、「陽炎」「赤黄色の金木犀」「若者のすべて」(授業で扱った曲)を通して、自分自身を投影させ、志村君の伝えたかったことを想像して書いているのが伝わってくる文章ばかりでした。
志村君の曲は、全く聴き手を限定しません。
生まれ育った地元で多感な時期を迎えている高校生にも、遠くふるさとを離れて暮らす私のような境遇の人にも、両方の心に響く歌がある。
それだけで、すごいことだと思うのです。
これからも折をみて、甲府城西高校 小論文演習クラスでの「志村正彦の歌を語りあう、授業の試み」について、このブログでお伝えできたらと思います。
会場を後にして、てくてく下吉田駅に歩いていくと・・・。同級生の仕掛けたビッグサプライズが!下吉田駅隣の駅カフェに展示されていた、志村君のカブです。シークレットサプライズとして展示されたのですが、大勢のファンが見に行ってくれました。
日記にもでてくる一度盗まれたというカブ。(「東京、音楽、ロックンロール」2009年9月参照)そう、志村君を「無駄にプチセレブ」にしたあのカブです。同級生W画伯の絵付きで、展示されました。下吉田駅の壁面と志村君のカブ、同じような色だったのですね。
実物の写真が、2012年1月25日付 山梨日日新聞電子夕刊に掲載されていますので、そちらをご参照ください。山梨日日新聞電子版
ここでもう一つ、今までの記事に補足です。
大人気だった「赤ベンチトーク」について、ファンの皆様から「ぜひ文字起こししてください!」というリクエストをたくさん頂きました。私の正直な気持ちを申しますと・・・あの赤ベンチトークは、実際志村君と同級生が昔、座ってよく話をしていたという木製ベンチを目の前に、左右後ろを志村君の昔の写真や思い出の品々に囲まれて、胸がいっぱいになってしまった時、同級生がとても楽しそうに語るまさひこくんとの思い出話が、何処からともなく流れてくる・・・というところに最大の意味があったと思うのです。
録音されていたトークを文字に起こせば、その時点でほとんどの価値を失ったといっても過言ではないでしょう。
ただ企画展に来られなかったファンのお気持ちもよくわかりますので、一つだけ思い出エピソードをご紹介させていただきます。
下吉田中学時代、文化祭のときのこと。同級生皆で、TOKIOのデビュー曲「Love You Only」を歌ったのですが、まさひこはバックコーラス担当でした。今にして思えば、後々フジファブリック ボーカル・ギター担当のまさひこが、バックコーラス・・・?と、思うけど、あの時は本人も含め、同級生も誰一人、まさひこがバンドのボーカルになるなんて考えていなかったからな。
・・・というものでした。
志村君が東京に行って「フジファブリック 志村正彦」になったということを知ってはいるけれど、同級生の心の中ではいつでも「同級生のまさひこ」のままなのです。そしてこれからも、「まさひこ」はずっとずっと彼らの仲間でい続けるのですから、公の場である「赤ベンチトーク」で語られたエピソードは、当然「正しい同級生の語らい」です!
6回にわたって書いてきましたこの企画展レポート、今日で終了致します。
拙いレポートでしたが、読んで頂きありがとうございました。企画展に来たかったけど来られなかったファンの皆さん、楽しんでいただけましたでしょうか。
正直な気持ちを申しますと、志村正彦ファンにはやはり富士吉田の街に一度は来ていただきたいと思います。なぜなら楽曲の根底に流れるものや、志村正彦の持つ真の魅力は、やはり富士吉田の地で生まれ育まれたものだと思うからです。あの街の風、空気、日差し、雨、草木や花、そして人々に触れて、それを肌で感じていただきたいと心から願います。
志村君と彼の書く音楽の魅力は、とても書き尽くせるものではありませんが、この企画展を通して特に強く感じたことがありました。
それは志村君という人は、ごくごく「普通」の環境で、「普通」に育てられたこと。それが彼独特の繊細な感性をもって、天才的な音楽性と文才を通し表現されたこと。そしてその陰には、強固な意志と、凡人には真似もできない努力があったこと。
だからこそ、彼の人となり、彼の作った音楽は今なお多くの人の心を打ち、ファンが増え続けていっているのだと思います。
「あなたと出会えてよかった」と同時に、「一度だけでも会いたかった」という複雑に入り混じった気持ちを抱えて、これからももっともっとファンは増えていくことでしょう。
最後に・・・。
このブログの記事を書くにあたって、快く作品の掲載を許して下さった甲府西高の赤池先生、美術部員の皆さん、城西高校の小林先生、ありがとうございました。
また展示品の説明文を監修して下さった実行委員代表、英訳監修をしてくれた親友セリーヌ。
ありがとうございました。
「志村正彦展」は、私の一生の思い出となりました。感謝の気持ちでいっぱいです。
これからも皆さんと一緒に、志村正彦君が大きく世界に羽ばたいていく姿を、見続けたいと思います。
ありがとうございました。
志村正彦展 「路地裏の僕たち」実行委員一同より
「皆様、ありがとうございました。」
今日の一曲は、やはりこの曲。「陽炎」です。実行委員の一人が、「校歌だと思っている」と言っていたほど、富士吉田がつまった一曲です。
完