Sunday 19 December 2010

山梨と志村君

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今日も朝から空気が澄み、甲府盆地から周りの山々が美しく見えました。
山梨にいるとどこからでも富士山が見えると思いがちですが、笛吹市石和町や御坂町などは富士山を調度遮る角度に山があるため、ほどんどみることができません。
逆に距離的にはさほど近くはないのに、南アルプス市や富士川町(旧増穂町、鰍沢町)からは、「ダイアモンド富士」(富士山の頂上から初日の出が昇るとき、ダイアモンドが頂上に輝くようにみえることから)を含め素晴らしい富士山が眺められます。
以前、テレビの「県民ショー」山梨特集の中でもいっていましたが、山梨県だと富士山に向かって立つと、富士山がある方が南、後ろが北、右手が西、左手が東なので、方角がすぐに分かります。「富士山で方角を知る方法は山梨ならではだな、と思っていたら、意外にも富士山が見えない地域が結構あるんだ。」と、甲府バイパスを車で走りながら、考えていました。





地元に戻って来て、過去に山梨日日新聞に載っていたフジファブリック関連の記事をいろいろ調べているところです。
志村君のご命日を目前にして、改めて日本の音楽界の大きな損失を感じると共に、山梨県から偉大なミュージシャンが出たんだという誇り、また高い志に向かって邁進する努力を忘れない、純真で純粋で真面目でひょうきんな「普通の」一青年、志村正彦くんをなくしてしまった喪失感にかられています。


2005年6月21日付けの山日の記事で、志村君はこんな趣旨のことを言っています。
「普通のミュージシャンは、武道館が夢だと思うんですけど、僕の場合は富士吉田なんです。富士吉田、山梨でライブをやるのが夢です。」


高校時代の同級生と富士吉田で結成した「富士ファブリック」は、高校卒業後も東京で活動を続けましたが、それぞれ別の道に進んだため現在は志村君一人が結成当時からのオリジナルメンバーとなってしまいました。
それでも「東京に出て、山梨県出身ということを刻むべくつけた」と言い切るバンド名は、生涯変えることはありませんでした。旧メンバーの実家が経営する会社名から「富士ファブリック」を命名。いつも放課後そのお宅でバンド練習をしていて、「そういうことを忘れず、大切にしようと思った」のと、「名前は染み付いて変える気にはならなかった。」という理由からでした。


山梨県の方にぜひ聴いてもらいたいし、山梨でのライブは夢だと語っていた志村君。
地元ライブを実現したい気持ちの反面、「東京で修行して、ちゃんと胸を張れるようになってから帰ってきます。」と、言っていました。


そしてこのインタビューから3年後の2008年、地元での凱旋ライブが実現したのです。
「東京対自分、富士吉田から出てきた自分が東京で考えて作った曲を地元でするのは、ちょっと恥ずかしい気もする。」といっていましたが、故郷に錦を飾った凱旋ライブでした。


これだけ山梨を愛した志村君に、残念ながら彼の生前、地元は大した応援は何ひとつできませんでした。本当に、後悔と懺悔の念に耐えません。
富士吉田には富士山だけでなく、日本の美を凝縮した素晴らしい音楽があるんだということを、世界中にいる日本の音楽愛好家たちに伝えなければいけないと心に誓った、今回の里帰りでした。

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