Friday, 23 December 2022

2022年12月24日によせて

今年も富士吉田の空に、「茜色の夕日」のチャイムが響く季節となりました。

13年という時間は長かったような、でもあっという間だったような、いろいろな記憶は忘却の彼方に行ってしまったような、でもはっきりと思い出せる出来事も多くあるような、雲のごとく過ぎ去った日々だったように思います。

現在、2009年12月24日をGoogleで検索してみると、上位3つめに「フジファブリック 志村正彦急逝」が出てきます。当時、大きな出来事として報道されたということだけでなく、この13年間、志村さんが急逝したという事実に、世の人々が注目し続けてきたということでもあるのでしょう。フジファブリック志村正彦 12月24日に急逝 ナタリー

当時、山梨でも多数のメディアに取り上げられ、その早すぎる死が惜しまれました。その中でも、特に心に残るものがあります。

2009年12月30日付の山梨日日新聞掲載「’09 現場ノート フジファブリック・志村さん死去」です。志村さんを生前から何年にもわたって取材していた、山梨日日新聞の沢登雄太記者が書いた記事で、県内在住のファンには覚えている方もいるかもしれません。

「決して愛想がいいわけではない。むしろ無愛想に近い。それでも、なんとなくほっとするー」(2009年12月30日付の山梨日日新聞掲載「’09 現場ノート フジファブリック・志村さん死去」より引用)

沢登記者が志村正彦さんを取材したときの印象です。

「僕は山梨っ子なんで・・・。」(2009年12月30日付の山梨日日新聞掲載「’09 現場ノート フジファブリック・志村さん死去」より引用)

と、幾度となく口にした志村さん。

2008年5月に開催された富士五湖文化センターでのライブの際、県内在住の大学生バンドがフジファブリックの楽屋を訪れるという山日新聞社の企画では、後輩バンドにエールを送り、その年の夏、山中湖きららでの野外ライブでは、地元でライブができた嬉しさを口にしました。

沢登記者が最後に志村さんに取材した2009年10月22日。ファンからもらった吉田のうどんを他のメンバー3人に見せながら、故郷についてしばらく語った後、富士急ハイランド・コニファーフォレストでのライブが決定したことを、嬉しそうに報告してくれたそうです。

そしてこの記事は、このような言葉で結ばれています。

「故郷への温かいまなざしがもう見られないと思うと、あまりに切ない。」(2009年12月30日付の山梨日日新聞掲載「’09 現場ノート フジファブリック・志村さん死去」より引用)

ことあるごとに、富士吉田への想いを口にしていた志村さん。

家族や友人、親戚を頼らず、自分の力だけで、故郷へ錦を飾るという純粋な志により、結果として山梨で活動する機会はほとんどないまま、志村さんは天へと旅立ってしまいました。今から・・・という時でしたのに。
しかしその姿は多くの人の心を打ち、今も語り継がれています。



この13年で、富士吉田市の志村さんを取り巻く環境は、大きく変わりました。


富士吉田市防災無線の夕方のチャイム
路地裏の僕たちのラジオ番組
富士急行線下吉田駅 列車接近音にフジファブリックの楽曲採用 など
この他、市内の多くの学校が、志村さんや楽曲を取り上げています。


今の富士吉田を、志村さんはどうみているのだろう。
13年前と何も変わらない志村さんがそこにいます。

彼が故郷にそそいだ温かいまなざしに、地元の私達が応えることができるよう、活動していきたいと思います。

富士山麓から世界へ!響け!フジファブリック!



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