Wednesday, 29 February 2012

サボテンレコード


皆様、ご無沙汰しております。

諸事雑用に追われる人間など関係なく、季節はどんどん過ぎていき、バンコクは一年で一番暑い真夏を迎えようとしています。
三日前、庭に咲き乱れるブーゲンビリアの木の下で、今年初めてのセミが鳴きました。日本のセミとは違い、タイのセミは日の高いうちはなりを潜め、朝日が昇る頃と火が沈む頃にだけ鳴きます。熱帯の華やかなイメージとは異なり、日本のセミよりひとまわり小さな体で、ひっそりしっとりと鳴きます。
「小さなセミ・薄明かり・ブーゲンビリア」が、私の中でタイの真夏のイメージになりました。

山梨は今朝、雪が降っていました。
結構積もったそうですが、立春を過ぎて降る雪はもう春の雪でしょうか。午後になると、もう溶け始めてきたようです。
明日から3月。春の足音がきこえます。

さて、久しぶりにフジファブリックの曲紹介と致しましょう。



今日の一曲は「サボテンレコード」。

私の大好きな曲のひとつです。
最初に聞いた時の衝撃は、今も忘れません。

なんといっても、フジファブリックは好きな曲を選ぶのが本当に難しい!
季節や気分によって好きな曲が変わるのは珍しくないのでしょうが、B面を含め、どの曲をとっても甲乙つけ難いため、「一番好きな曲」を選ぶのは非常に難しく、結局皆「好きな曲」になってしまう不思議なバンド、フジファブリック。

その中でも大好きな一曲です。
なんともセピアな雰囲気に包まれています。

フジファブリック独特のキーボードサウンドが光り、静かに聞こえてくるピアノとオルガンの音が、曲全体にまるでセピア色のスプレーをかけたように仕上がっていると思います。

「陽炎」でもなんともいえないセピアな雰囲気を醸し出すこのピアノとオルガンの音ですが、ダサくならず効果的に使うのは、きっと技術がいるのでしょうね。


FAB BOOKの中で、志村君は「サビのメロディは気に入ってて、そこにどうもっていくかっていうことで悩んでました」とコメントしていますが、サビにむかってだんだんリズムが早くなり、サビで「ハネハネビート」(Fujifabricバンドスコア、志村君解説)になります。
その後、歌詞の中にある時計の「チクチク タク」のような落ち着いた8ビートに戻る。
その戻り方がいかにもフジらしく、フジファブリックの魅力溢れるリズムと流れになっていると思います。

「サボテン持って レコード持って 
やりかけだったパズルは捨て
車に乗って 夕日に沿って
知る人もいないとこに着くまで」

最後にくるこのパートで歌詞の情景が鮮やかに目に浮かぶのも、「チクチク タク」と「ハネハネビート」の効果だからなのでしょうか。

私は音楽の専門家ではないので偉そうなことはいえませんが、素人にもこのように思わせる名曲です。

歌詞についての詳しい解説や感想は、志村君の望む歌詞の柔軟性(聴き手によって、想像をふくらませ、どのようにもとらえることができるよう、志村君は意図的に限定的な言葉を避けていた)を妨げるので避けたいと思いますが、外国にいるファンのために一つだけ注釈をさせて下さい。

それは歌詞の中に、日本人にとってセピアな外国の雰囲気を感じさせる単語が散りばめられているということです。



まず曲名の「サボテンレコード」。

サボテンは原産が南北アメリカ大陸であり、日本には16世紀後半頃に南蛮人によって持ち込まれたといわれています。もともと日本土着の植物ではないためか、今でも「異国」の香りのする植物の一つです。
日本では主に観賞用として売られています。(タイを含め、諸外国では、紐サボテン属の果実、ドラゴンフルーツが時期になるとスーパーなどでも出回るため、サボテン=観賞用+食用と考える人も多いのです)



「レコード」は、音楽の販売される媒体として非常にポピュラーでしたが、CDやMP3にとってかわられた今では、レトロなものとなってしまいました。こちらも「外国」からきた古いものです。

そして「時計」。
チクチク タク チクチク タク と音がするものは、デジタル時計が流通する今、やはり異国から来た昔の音ではないでしょうか。

「ステレオのスウィッチ 
入れて 30年遡り かけた音楽」

流れてきたのは、ボサノバ、ジャズと外国の音楽ばかりです。

「今夜 荷物まとめて あなたを連れて行こう」
その時に・・・
「サボテン持って レコード持って
やりかけだったパズルは捨て」ていきます。

日本では、「パズル」というと多くの場合、「ジグソーパズル」のことを意味します。
ジグソーパズルのジグソーは、英語のjigsaw(糸鋸)から由来しています。元々ジグソーパズルは木の板を糸鋸で切って作られていたために、この名前が付いたといわれ、1760年頃、イギリスで作られました。

近年、日本製のジグソーパズルも増えていて、日本のアニメや風景が絵柄のものなども登場し、日本でも年齢を問わず広く遊ばれる玩具となりましたが、一昔前までは輸入品が主でした。そのため、今でも「外国」のイメージが伴います。

これらの単語が絶妙のタイミングと適当な数で、ちょこちょこと歌詞に出てきては、ピアノやオルガンの音にのってセピア色の曲を作り上げています。

次回は、フジフジ富士Qで片寄さんの歌った「サボテンレコード」、そして1stアルバム「Fujifabric」について詳しくみてみたいと思います。

フジファブリック 「サボテンレコード」お聴き下さい。

Friday, 10 February 2012

2012年 愛染厄除け地蔵尊祭 追加記事


昨日の記事に、少し追加です。

無尽会で行く旅行について。
富士吉田に限らず、山梨では若い頃から(20歳ぐらいから)無尽会に所属し、毎月旅行のために積み立てをすることがよくあります。厄年の人達、特に60歳の厄年を迎えた人達に人気の行き先は、「伊勢神宮」だそうです。
江戸時代の「お伊勢参り」にルーツがありそうな、なさそうな・・・。
今年は20年に一度の式年遷宮ですから、今年、無尽会で伊勢にいらっしゃる方たち、うらやましい!

もうひとつ。
富士吉田の中でも、昔からの地区(明見など)では、厄除けのお祭りを新しい地区よりも、盛大に行います。
昼間も賑やかに、今年厄年を迎える人達がおみこしを担いで街をねり歩きます。

また、地元の子供たち(中学生以上かな・・・)にとって、夜に行われる厄地蔵さんのお祭りは、親公認で堂々と、夜遅くに外出できる絶好の機会でもあります。このワクワク感、言葉で伝えるのが難しいのですが、子供心にとても楽しみな行事です。


最後にもうひとつ。
吉田の街でスーパーに行くと、「愛染うどん」といううどんをよく見かけます。(こちらのホームページ参照 吉田のうどん)
吉田の街には、「愛染商店」「愛染通り」など「愛染」という言葉がついた名称をよく見かけます。「愛染」という呼称の来歴は不詳ですが、地元の人達には親しみのある名前です。


一年で一番寒さが厳しい季節ですが、富士吉田の街に活気が溢れる2日間です。

もし冬の富士吉田を訪れる計画がありましたら、昔ながらのお祭りが味わえる2月13、14日はいかがですか。街角で、きっといろいろなお話がきけることでしょう。



いつもの街並が暗闇に包まれ、なんとなく怪しげな雰囲気。いつもだったらとっくに寝ている時間、外にいる。こんな時間に外に出ていて、とても興奮している反面、なんかちょっと悪いことをしているような変な気分。しばらく歩いていくと、前方の暗闇の中に、ぼんやりと夜店の明かりが見えてくる・・・。

今日の一曲は、「水飴と綿飴」です。

Wednesday, 8 February 2012

2012年 愛染厄除け地蔵尊祭


今夜からまた冷え込む予報となっていますが、皆様いかがお過ごしですか。九州や関西でも厳しい寒さに見舞われ、インフルエンザが蔓延しているとききます。くれぐれもお体大事になさって下さい。

さて、今年も富士吉田市下吉田にある愛染地蔵さん(「あいぜんじぞう」とよみます)厄除け祭りの季節となりました。

昨年も記事に書きましたが(愛染厄除け地蔵尊祭 2011年2月11日付ブログ記事)、今年はもう少し地域に密着し、詳しくご紹介したいと思います。

厄年とは、災難にあったり健康を害したりするおそれが多いので、注意しなければならないとされる年齢です。一般的には数え年(元日から誕生日前日までは、実年齢+2、それ以降は+1)で、男性は25歳、42歳、61歳、女性は19歳、33歳、37歳です。男性の42歳、女性の33歳は特に悪い歳とされ、「大厄」とよばれます。


平安時代にはすでに存在し、起源は陰陽道だという説もありますが、定かではありません。
迷信と言ってしまえばそれまでですが、これらの年齢が実際に健康上、仕事上の転機に当たることも多いため、(例えば昔の女性は、19歳前後で初めてのお産を経験するなど)、今でも日本中で根強く信じられている風習です。

この時期、山梨県では甲府市も含め、県内全域で厄除けの行事が行われます。地方色豊かな行事で、地域によって微妙に異なりますが、今日は富士吉田下吉田界隈での厄除けの行事をご紹介致します。

富士吉田では女性の厄年に特徴があり、19歳、33歳、は一般的なものと同様ですが、37歳はせず、代わりに60歳に最後の厄除けをします。本厄前後の前厄、後厄もいれると、3年の間厄除けをすることになります。一生涯に9年間、厄除けをするという計算になりますね。

厄年の人がいる家は、みかん、駄菓子(ポテトチップやあめなど)、豆、年齢と同じだけのお金(19歳だったら19円。42歳や60歳は、通常100円ぐらいをいれる)を準備し、ナイロンの袋に入れておきます。
そして班内(山梨県には、隣近所の人達で作る「班」や「組」とよばれる、小さな組合のようなものがあります。どぶさらい、ゴミ出し、回覧板などすべて班や組を一つの単位とし、皆で助け合いながら行います。都市化の進んだ甲府でも、班制度は今でも現役です)の家々に、家族の代表(普通はお母さん)が、先程のセットを配り歩きます。


「みかんまき」の風習もあります。
「今からみかんまきをしますから、来て下さいね。」と、厄年の人がいる家は、まずご近所さんに声をかけます。その後、2階の窓からみかんをまきます。多い家では10箱ものみかんをまくこともあるそうです。

もちろん近所の神社にも、厄除けのお参りにいきます。
事前に各家庭で、「だんごばら」という白いだんご(上新粉から作る。1月15日の小正月の時、どんど焼きに使うだんごと同じようなもの)を年の数だけ作り、先程のナイロン袋のセットも一緒に、神社へ奉納します。
それを神社でまいていただき、厄除けとします。

大学生や社会人など、事情がありどうしても本人が参拝できない場合には、吉田にいる家族が同級生などに頼んで(同い年である同級生は、みんな一緒に厄年ですから)、だんご等を神社へ持っていってもらい、厄除けとします。

2歳違いの兄弟3人ですと、かなりの期間、ご家族は厄除けの行事をすることになります。
19歳の女の子や25歳の男の子は、自分で準備をするというよりは、同居している祖父母や両親がしてくれるのをみて育ちます。地方色豊かな厄除けのお祭りは、伝統を受け継ぐというだけでなく、今では稀薄になりがちな地域の絆を深める大切な行事だと思います。

昨年、ベトナム・ハノイ在住の富士吉田市出身の方が、「私は今年60歳です。今日は富士吉田にいる家族が、私のために厄除けに行ってくれているでしょう。」と、ブログにコメントを下さいました。海外にいながらも思いを馳せる馴染みの深いお祭りなのです。(あの時は、コメントありがとうございました。富士吉田の方から頂いた初めてのコメント、とても励みになりました。)

もし2月13、14日に富士吉田へいらっしゃるようなことがあったら、ぜひ小さな路地裏通りに入って、周りを見回してみて下さい。きっと「下吉田の厄除け祭り」が見られることと思います。
山梨県には「無尽」(「むじん」とよむ)という独特な集まりがあるのですが、無尽会などで、厄年の人達が皆で厄除けのために、京都へ旅行へ行ったりするのも人気です。
無尽については、また後日ご紹介致します。

正彦君が25歳の時、2004年2月13日から14日(数えで25歳は、実年齢24歳)、何をしていたのかなと思って「志村日記」を見ましたら、ちょうど「『桜の季節』のPVが完成した」と書いてありました。まさに「仕事の転機」だったのですね。転機というより本格始動でしょうか。

富士吉田では、厄除け祭りに行くということであれば有給が取れますから、きっとあの日、正彦君の同級生は、皆で連れ立って神社へ行ったのでしょうね。そして彼の分も厄除けをしてきてくれたことでしょう。

そんなことを、2012年の愛染地蔵尊厄除け祭によせて、考えました。

今日の一曲は、「桜の季節」です。いつもと違って聴こえる「桜の季節」です。

Friday, 3 February 2012

節分祭り



今日は節分です。
節分とは本来、「季節の分かれ目」(各季節の始まりの日の前日)を意味していましたが、江戸時代以降は特に立春の前日を指すようになりました。

現在では2月3日頃が、これにあたります。
この日の夜、炒った大豆を家の内外に撒きながら「鬼は外!福は内!」と唱えます。その年の健康を祈り、自分の年の数だけ大豆を食べるという習慣もあります。

「季節の変わり目には邪気(鬼)が生じる」
節分はそれを追い払うための悪霊払いとして、平安時代頃から、宮中の年中行事として始まりました。日本独特の風習であり、他国には節分のような行事はありません。
土着の自然崇拝や神道など、日本固有の自然環境(はっきりとした四季があることなど)から受ける影響が大きかったと思われます。

確かに季節の変わり目には体調を崩す人も多く、子供やお年寄りには厳しいときですよね。神事から遠のいてしまっている私たちでも、納得できます。

元々宮中行事だったものが、庶民の生活に採り入れられました。
神社仏閣では「節分会」(せつぶんえ)として、大々的に豆まきが行われます。



山梨県内では「身延山久遠寺」の節分会が有名で、毎年、荒行修法師のほか、力士、タレント、歌手などが特設ステージより豆を撒きます。

そして、富士吉田市上吉田にある冨士浅間神社(地元の方たちは、「かみせんげん」と呼ぶ)などでも行われる賑やかな行事です。



フジファブリック 志村正彦君の地元、富士吉田市下吉田にある小室浅間神社(地元の方たちは「しもせんげん」と呼ぶ)でも、今日は節分会が行われます。
昨年の「志村正彦展」で配られた「てくてくマップ 志村正彦編」にも書いてありますが、小学生の時の遊び場であった下浅間神社です。

近年、学生さんや会社員の方々が平日は休めないという理由から、豆まきは日曜日、節分祭は例年通り2月3日に執り行われることとなったそうです。
詳しくはこちらのホームページをご覧下さい。

小室浅間神社 ホームページ 節分祭

最低気温-13℃、最高気温-2℃という厳しい寒さの中で、今頃豆撒きをしているのかな。

今日富士吉田にいらしているフジファブリックファンの方、よろしかったら年に一度の節分祭で、厄除けをしてみてはいかがでしょうか。

今日の一曲は、「午前3時」です。
この頃のフジファブリックの曲は、改めて聴いてみるといいですねぇ。「志村正彦全詩集」を片手に聴くと、もっといい。シブい上になんともチャーミングで、二十歳そこそこの青年が作ったとは信じ難い・・・。でも若者の「開放感」みたいなものも感じられて、「アラカルト」は大好きなアルバムです。


Friday, 27 January 2012

2011年「志村正彦展」 企画展レポート6 最終回

(河口湖から見た富士山)

さて、予想以上に長くなってしまったこの企画展レポートも、いよいよ最終回となりました。
今日は、展示会場外にあった展示物をご紹介致しましょう。

実行委員の予想を上回る来場者の多さ(山梨日日新聞によると、約2000人の方がご来場下さいました)に、まず驚きました。会場は3階でしたが、1階のロビーまで続く長蛇の列。こんな札も、会場内の階段に貼られました。

同級生の皆さんの心遣いが、憎いですね。



そんな長い待ち時間の中、ファンの皆さんが壁に貼られた高校生の小論文を、一生懸命読んでいるのが見受けられました。

あの文章は、山梨県立甲府城西高校の小林一之教諭が指導する、生徒さんの小論文です。(学校案内はこちら 山梨県立甲府城西高等学校)志村正彦君の書く歌詞が、「小論文演習」という授業の中で取り上げられ、その様子が山梨日日新聞の記事にもなりました(平成23年6月30日付)。以前、このブログでも皆様に紹介しましたので、ご記憶の方もいらっしゃるかと思います。(2011年7月5日記事)

この企画展にあたり、小林先生と生徒さんが新たに書き下ろして下さった文章が、階段の壁に展示されました。ここでは小林先生がお書きになった文を、ご紹介したいと思います。

志村正彦の夏       小林一之


 志村正彦にとって、夏は特別な季節である。夏を舞台としない歌の中でも、時に触れられることがある。


 短い夏が終わったのに 今 子供のころのさびしさが無い (『茜色の夕日』)
 冷夏が続いたせいか今年は なんだか時が進むのが早い (『赤黄色の金木犀』)
 真夏のピークが去った 天気予報士がテレビで言ってた (『若者のすべて』)


 「短い夏」「冷夏」そして「真夏のピーク」。夏はいつものように過ぎ去るが、彼は佇立し続ける。彼はたたずみ、季節を言葉と音に織り込んでいく。夏の記憶の織物は、フジファブリックの作品となって、ここ十年の間、私たちに贈られてきた。中でも『陽炎』は志村にしか表現しえない世界を確立した歌である。


 あの街並 思い出したときに何故だか浮かんだ
 英雄気取った 路地裏の僕がぼんやり見えたよ (『陽炎』)


 夏は、想いの季節である。夏そのものが私たちに何かを想起させる。「街並」「路地裏」という場。「英雄」、幼少時代の光景。楽しかったり、寂しかったりした記憶が「次から次へ」と浮かんでくる。
 夏は、ざわめきの季節でもある。人も、物も、風景も、時もざわめく。「陽」が「照りつけ」ると共に、何かが動き出す。そのとき、「陽炎」が揺れる。


 窓からそっと手を出して やんでた雨に気付いて
 慌てて家を飛び出して そのうち陽が照りつけて
 遠くで陽炎が揺れてる 陽炎が揺れてる (同)


 『陽炎』はここで転調し、詩人の現在に焦点があてられる。


 きっと今では無くなったものもたくさんあるだろう
 きっとそれでもあの人は変わらず過ごしているだろう
 またそうこうしているうち次から次へと浮かんだ
 出来事が 胸を締めつける (同)


 今では「無くなったもの」とは何か。特定の他者なのか。風景なのか。十代や青春という時間なのか。あるいは、過去の詩人そのものなのか。そのすべてであり、すべてでないような、つねにすでに失われている何かが「無くなったもの」ではないのか、などと囁いてみたくなる。
 喪失という主題は青春の詩によく現れるが、大半は、失ったものへの想いというより、失ったものを悲しむ自分への想いに重心が置かれる。凡庸な詩人の場合、喪失感は自己愛的な憐憫に収束するが、志村の場合は異なる。彼の詩には、そのような自己憐憫とは切り離された、失ったものそのものへの深い愛情と、失ったものへ、時に遠ざかり、時に近づいていく、抑制された衝動がある。そして、喪失を喪失のままに、むしろ喪失を生きなおすように、喪失を詩に刻んでいった。それは彼の強固な意志と自恃に支えられていたが、「胸を締めつける」ような過酷な歩みでもあった。
 四十年を超える日本語のロックの歴史の中で、志村正彦は絶対的に孤独である。その孤独ゆえに、今、私たち一人ひとりとつながり続ける、永遠の作品として屹立している。


寒冷地、富士吉田の地で、「夏」は短く儚い季節です。だからこそ、「生」と「動」脈動の季節への賛美や喪失感が、より強いのかもしれません。志村君の作り出す歌詞、特に自然に対しての独特な感性は、日本の俳句や短歌の世界と共通するものが多く、世界に誇る文学作品の一つだと私は常々思っています。

小林先生の語彙力豊かな日本語を読むと、フジファブリックの歌詞世界の素晴らしさが、より深く理解できると思います。他の曲についても、ぜひ読ませていただきたいと思いました。

授業のためにフジファブリックの曲を聴いたのがきっかけで、ファンになったという生徒さんたちがとても多かったのは、フジファブリックファンとしてとても嬉しいことでした。
生徒の皆さんは、私の予想以上にとても深く歌詞を読み、曲を聞き込んでいらっしゃって、「陽炎」「赤黄色の金木犀」「若者のすべて」(授業で扱った曲)を通して、自分自身を投影させ、志村君の伝えたかったことを想像して書いているのが伝わってくる文章ばかりでした。

志村君の曲は、全く聴き手を限定しません。
生まれ育った地元で多感な時期を迎えている高校生にも、遠くふるさとを離れて暮らす私のような境遇の人にも、両方の心に響く歌がある。
それだけで、すごいことだと思うのです。

これからも折をみて、甲府城西高校 小論文演習クラスでの「志村正彦の歌を語りあう、授業の試み」について、このブログでお伝えできたらと思います。



会場を後にして、てくてく下吉田駅に歩いていくと・・・。同級生の仕掛けたビッグサプライズが!下吉田駅隣の駅カフェに展示されていた、志村君のカブです。シークレットサプライズとして展示されたのですが、大勢のファンが見に行ってくれました。

日記にもでてくる一度盗まれたというカブ。(「東京、音楽、ロックンロール」2009年9月参照)そう、志村君を「無駄にプチセレブ」にしたあのカブです。同級生W画伯の絵付きで、展示されました。下吉田駅の壁面と志村君のカブ、同じような色だったのですね。
実物の写真が、2012年1月25日付 山梨日日新聞電子夕刊に掲載されていますので、そちらをご参照ください。山梨日日新聞電子版


ここでもう一つ、今までの記事に補足です。

大人気だった「赤ベンチトーク」について、ファンの皆様から「ぜひ文字起こししてください!」というリクエストをたくさん頂きました。私の正直な気持ちを申しますと・・・あの赤ベンチトークは、実際志村君と同級生が昔、座ってよく話をしていたという木製ベンチを目の前に、左右後ろを志村君の昔の写真や思い出の品々に囲まれて、胸がいっぱいになってしまった時、同級生がとても楽しそうに語るまさひこくんとの思い出話が、何処からともなく流れてくる・・・というところに最大の意味があったと思うのです。

録音されていたトークを文字に起こせば、その時点でほとんどの価値を失ったといっても過言ではないでしょう。

ただ企画展に来られなかったファンのお気持ちもよくわかりますので、一つだけ思い出エピソードをご紹介させていただきます。

下吉田中学時代、文化祭のときのこと。同級生皆で、TOKIOのデビュー曲「Love You Only」を歌ったのですが、まさひこはバックコーラス担当でした。今にして思えば、後々フジファブリック ボーカル・ギター担当のまさひこが、バックコーラス・・・?と、思うけど、あの時は本人も含め、同級生も誰一人、まさひこがバンドのボーカルになるなんて考えていなかったからな。

・・・というものでした。
志村君が東京に行って「フジファブリック 志村正彦」になったということを知ってはいるけれど、同級生の心の中ではいつでも「同級生のまさひこ」のままなのです。そしてこれからも、「まさひこ」はずっとずっと彼らの仲間でい続けるのですから、公の場である「赤ベンチトーク」で語られたエピソードは、当然「正しい同級生の語らい」です!



6回にわたって書いてきましたこの企画展レポート、今日で終了致します。
拙いレポートでしたが、読んで頂きありがとうございました。企画展に来たかったけど来られなかったファンの皆さん、楽しんでいただけましたでしょうか。

正直な気持ちを申しますと、志村正彦ファンにはやはり富士吉田の街に一度は来ていただきたいと思います。なぜなら楽曲の根底に流れるものや、志村正彦の持つ真の魅力は、やはり富士吉田の地で生まれ育まれたものだと思うからです。あの街の風、空気、日差し、雨、草木や花、そして人々に触れて、それを肌で感じていただきたいと心から願います。

志村君と彼の書く音楽の魅力は、とても書き尽くせるものではありませんが、この企画展を通して特に強く感じたことがありました。
それは志村君という人は、ごくごく「普通」の環境で、「普通」に育てられたこと。それが彼独特の繊細な感性をもって、天才的な音楽性と文才を通し表現されたこと。そしてその陰には、強固な意志と、凡人には真似もできない努力があったこと。

だからこそ、彼の人となり、彼の作った音楽は今なお多くの人の心を打ち、ファンが増え続けていっているのだと思います。
「あなたと出会えてよかった」と同時に、「一度だけでも会いたかった」という複雑に入り混じった気持ちを抱えて、これからももっともっとファンは増えていくことでしょう。

最後に・・・。
このブログの記事を書くにあたって、快く作品の掲載を許して下さった甲府西高の赤池先生、美術部員の皆さん、城西高校の小林先生、ありがとうございました。
また展示品の説明文を監修して下さった実行委員代表、英訳監修をしてくれた親友セリーヌ。
ありがとうございました。

「志村正彦展」は、私の一生の思い出となりました。感謝の気持ちでいっぱいです。
これからも皆さんと一緒に、志村正彦君が大きく世界に羽ばたいていく姿を、見続けたいと思います。
ありがとうございました。

志村正彦展 「路地裏の僕たち」実行委員一同より 
「皆様、ありがとうございました。」

今日の一曲は、やはりこの曲。「陽炎」です。実行委員の一人が、「校歌だと思っている」と言っていたほど、富士吉田がつまった一曲です。
完

Thursday, 26 January 2012

Masahiko Shimura Exhibition, 'Rojiura No Bokutachi' in Fujiyoshida City - Report 1



Happy New Year!
Best wishes for the New Year 2012 to bring you the everlasting glow of happiness, merriment and good fortune.

Sorry to keep you waiting!
Today, I am writing a post on the Masahiko Shimura Exhibition in Fujiyoshida City which was held on 23rd, 24th December 2011. The dates for Exhibition coincided with the day that Shimura kun passed away 2 years ago; all the staff (his classmates) nevertheless did their best to make visitors feel welcome and happy by giving out big smiles. About 2,000 people came from all over Japan, and had to wait on average over 2 hours to enter the exhibition! Despite the long queues, everyone was showed great respectto each other with impeccable manners, courtesy and politeness. I was so proud to be one among Fujifabric fans!

For those fans unable to attend from overseas, don't be disappointed!
Thanks to the executive committee (Shimura kun's friends from Kindergarten, Primary and Secondary School), I was invited to write a report on the Masahiko Shimura Exhibition to be illustrated with many photos! It is their and also my pleasure to give those who could not attend Exhibition a notion of the hearty and warm atmosphere that reigned throughout the event.

I will do my best to write a report worthy of a writer. Thank you to my best friend, Celine, who has given me her support over the last 20 years, and corrected my poor English.



On both 23rd, 24th December 2011, blessed with cold but good weather, beautiful Mt. Fuji capped with snow, could be contemplated from the Fujiyoshida Civic Hall. There were many fans saying, "The first impression of Fujiyoshida City is Big Mt. Fuji!". The grey building of Civic Hall looked splendid in contrast with clear blue winter sky.

At the entrance, a standing sign welcomed all (see the picture above).

This Exhibition was originally planned by the Shinmachi neighbourhood council, but later, it was handed over to Shimura kun's friends from Kindergarten, Primary and Secondary School in his hometown. The greeting words from his friends were quietly posted up on the board in the Exhibition : allow me to take this opportunity to introduce those words to you today.

(The picture shows the executive committees for the Masahiko Shimura Exhibition - Rojiura No Bokutachi)

The rock band, Fujifabric, led by Masahiko Shimura from Fujiyoshida City, Yamanashi Prefecture, did not achieve fame through mass media coverage such as TV, but rather though its distinctive music style. It is not a group widely known to the general public, but has grown over time to become a band loved by a greater number of fans than people in Fujiyoshida could even imagine.


Class mates from Shimo Yoshida Daiichi Primary School, Shimo Yoshida Junior High School, and Yoshida High School gathered and formed a rock band, and went to Tokyo with the aim of launching their debut in 2000. After many twists and turns, the 1st indie album was released in 2002, and the band achieved its major debut in 2004. Many fans were mesmerized by the ingenious lyrics and melodies written by Shimura, and also by his vocal talent which clearly showed that he put his whole life into his songs.


In 2005 and 2008, albums were released, and concerts started expanding to bigger halls like Hibiya Yagai Dai Ongakudo (Hibiya Outdoor Concert Hall) and Ryogoku Kokugikan (Hall usually used for Sumo matches, but nowadays occasionally used for other purposes, such as music concerts).
On the 31st May 2008, Shimura's big dream came true - to hold a concert in Fujiyoshida Civic Hall, in his hometown. The hall was filled with many fans including his old classmates, and the concert started with a song, 'Daichi Sansho' (literally meaning 'Praise to Earth') and it became a legend thereafter among Fujifabric fans.


In May 2009, the 4th album was released celebrating a new step in their musical progression. The band was expected to occupy a more active role on the Japanese music scene, but on the 24th December 2009, Masahiko Shimura suddenly left this world.


During his lifetime, Masahiko Shimura loved Fujiyoshida City from his heart, and left his thoughts in his songs. In interviews, he always talked about his hometown, and we believe that Fujiyoshida occupied a great place in his heart.
Many of his fans think of Fujiyoshida City constantly even now, and young folks looking-like Fujifabric fans are often seen taking a walk around Shimo Yoshida area.


We, Masahiko's class mates, planned this Exhibition in order to give a chance not only to fans but also to Fujiyoshida citizens to understand the thoughts of our friend, Masahiko, who kept chasing after the boyhood dream that everyone used to have.


Three kinds of 'Hearts' are displayed here thanks to the kind support from Masahiko's parents - Masahiko's passionate heart for music and the footprints of his own music which he has now left behind, ; our heart to Masahiko, our classmate ; and the heart from Fujifabric fans thinking of Masahiko forever.
By a curious coincidence, the Exhibition was held on the day of the second anniversary of his death, but please do not mourn - rejoice and enjoy the feeling Masahiko is here with us.
Thank you to Masahiko's parents who accepted our tough requests with smiles, officials and staff in the management office that he belonged to. Thank you to you, Fujifabric fans who keep showing your eternal love to Masahiko, people in Fujiyoshida, the place he always loved, and of course the Fujifabric members who decided to continue with the band.
All of you made this Exhibition happen.
Thank you from the depths of our heart to you all.


From Exhibition staff



On that morning just before10 o'clock, before opening the entrance door, I heard staff, Masahiko's classmates, staring to sing the emblematic memorable song, 'Daichi Sansho' (literally meaning, 'Praise to Earth') in chorus to unite their hearts together.
The chorus consists only of adult male bass and tenor voices. Looking at there grown men singing in attractive low-pitched voices while their faces expressed the glow of youth made me feel "Something special and big is about to begin here..." and my heart started pounding fast with excitement.

I will write more in the next post.
A big photo of Masahiko Shimura used in the farewell ceremony in January 2010, letters and drawings from fans, photos take in concerts and in his childhood, guitars, amplifiers, cloths, etc.
There is still a great deal to cover!

Many Fujifabric songs were played in the exhibition hall. Today though, I have chosen the song, 'Kagero' (see English translation in the column on the right). 'Myself in the back of an alley    posing as a hero' is still a hero among all the boys in the town!

Wednesday, 25 January 2012

山梨日日新聞 1月25日付電子夕刊 「志村正彦展の舞台裏」掲載予定!



今日1月25日付、山梨日日新聞電子夕刊に「志村正彦展の舞台裏」という記事が掲載予定です。
23日朝刊「ときめきゾーン」に載った記事とは、また違う内容ですので、ぜひご覧になってみて下さい。
電子版ですと、山梨にいなくても読めますから便利です!
ちなみに私もいつも利用しています。

地方色豊かで思わずほのぼのする記事だけでなく、原発問題にも関心が高いため、大変勉強になります。

電子夕刊は15日間、無料試読ができますので、詳しくはこちらのホームページからどうぞ。
山梨日日新聞 電子版

今朝の朝刊(電子版でも、山梨県内で販売されるものと同一)には、一面銀世界の富士吉田市、忠霊塔からみる富士山が写真付きで載っています。そしてその横にある「きょうの紙面」欄(新聞の目次のようなもの)には、「フジファブリックの『志村正彦展』舞台裏に迫る」の文字が!
よかったらこちらもご覧下さい。


今から夕方5時が、待ち遠しいです!