2013年10月4日掲載記事「ないものねだり」の続編です。
志村君の書く歌詞の中には、「星」「月」「虹」「陽炎」など多くの自然に関する言葉が登場しますが、「花」はその中でも特別な位置を占める単語のような気がします。
「花」は元来、芸術作品のモチーフとして取り上げられることが多く、様々な分野の芸術家にインスピレーションを与えてきましたが、音楽の一ジャンルであるロックにおいても例外ではありません。
ジャパニーズ・ロックで、「桜」を歌った曲の数だけを考えてみても、「花」がいかに作り手の心を動かし、曲を通して聞き手の心を動かすかは、想像に難くありません。
先日、たまたま車の中で、槇原敬之さんの「世界に一つだけの花」を耳にする機会がありました。この曲は、SMAPがカバーしたり、紅白で歌われたりと広く世間でも知られている曲ですが、今まで一度も歌詞を意識して、じっくりきいたことはありませんでした。
「ないものねだり」に歌われている花について、ちょうど考えていた時期だったので、各作詞家の歌詞に登場する「花」がどのように表現されているのか、大変興味がありました。
「世界に一つだけの花」には、まず「花屋の店先」に並ぶ売り物としての「花」が登場します。「ひとそれぞれ好みはあるけど」「どれもみんなきれい」に咲いています。
栽培方法や季節、需要と供給のバランスなどにより、人間によって値段が付けられ、商品として価値を見出された花たちばかりです。
そんな人間の都合は関係なく、花たちは「誰が一番だなんて」いうことは気にもせず、お互い「争うこともしないで」、バケツの中で一輪一輪「しゃんと胸を張って」店頭に並んでいます。
「頑張って咲いた花はどれも」「きれいだから仕方ない」のですが、どの花を買おうかと悩んだ末に、「色とりどりの花束」を抱えて出てきたお客さんの「嬉しそうな横顔」。
その「嬉しそうな横顔」は、あの日、「誰も気づかないような場所で」「咲いて」いた、名前も知らない花がくれた「笑顔」を瞬時に思い起こさせます。人間の笑顔をみて、花が僕にくれた笑顔を思い出したのです。
花と人間とを照らし合わせ、人間のもつエゴに疑問符を投げかけ、「そうさ 僕らは 世界に一つだけの花 一人一人違う種をもつ」「その花を咲かせることだけに 一生懸命になればいい」、そして「一つとして同じものはないから」「No.1にならなくてもいい もともと特別なOnly One」と締めくくります。
「現実感のある言葉を用いて、観念的な言葉は直接使わない」という、槇原さんが歌詞を書く基本スタイルがそのまま貫かれ、彼の価値観や人生観がわかり易い言葉で表現されたこの曲は、槇原さん自身が、「ライフソング」と呼び(生きることや人のアイデンティティを深く掘り下げたもの)、当時の世相を反映したこともあって2003年に、大ヒットしました。
槇原さんの描く華々しい印象を与える「花」。対照的に咲いているのがフジファブリックの「花」たちのような気がします。
まずは「花屋の娘」で、「そのうち消えてしまった」「あの娘」。その雰囲気は「野に咲く花の様」で、「僕」はその娘を「菫(すみれ)」と名付けます。
「花」に出てくる「つぼみ開こうか迷う」花。
「赤黄色の金木犀」に出てくる「金木犀」。
「ペダル」に出てくる「だいだい色 そしてピンク」の「咲いている」花。
「ないものねだり」に出てくる「路地裏で咲いていた」花。
「蜃気楼」に出てくる「鮮やかな」花。
「ムーンライト」に出てくる、「惑星を眺めつつ」植えたい花。
様々なところで登場する「花」たちですが、志村君の書く「花」は何か共通のものを感じます。
今日の一曲は、「花屋の娘」。独特な雰囲気をもつこの曲に、打ちのめされたファンも少なくないでしょう。
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