Monday, 16 January 2017

「お母さんの声は金の鈴」 椋鳩十

今季初の大寒波到来により、寒い日が続いているときいておりますが、みなさまはいかがお過ごしですか。富士吉田の今日(2017年1月16日)の最低気温が、マイナス10度予想!旭川や青森、秋田より寒いなんて、山梨県は本当に寒暖の差が激しい地域だな、と思います。

今日は最近読んだ本の中から、感じたことをひとつ。

先日、椋鳩十著「お母さんの声は金の鈴」(あすなろ書房 1990年)という本を読みました。

椋鳩十さんの名前をきいて、「大造じいさんとガン」のお話をすぐに思い出す方も、フジファブリックファン世代には多いかと思います。大造じいさんとガン
小学5年生の国語教科書に、ずいぶん昔から載っている有名なお話です。甲府市、富士吉田市など山梨県下にある公立小学校では、光村図書出版の教科書が主に使われていますので(山梨県内使用教科書 山梨県内使用教科書 小学校)、おそらく志村君も小学校5年生の時にこのお話を読んだと思われます。

「楽しく、感動ぶかい思い出とともに植え込まれた母の声は、いつまでもいつまでも、金の鈴のごとく、美しい声として、心の中に鳴り続ける」

そのように語る椋鳩十さんが行った晩年の講演、および資料を中心に編集されています。

この本の中で、椋さんが人間の情緒について語っている箇所があります。読んだ瞬間に志村君のことが頭をよぎったので、ここで紹介させて頂きます。昨今では入手困難な本なので、長文にて引用致します。

情緒について
 人間の情緒、このあいだ、たんぽぽが咲いているのを見て、ああ、もうたんぽぽが咲いた、いいなあと思った。
 花が咲くのが何がいいのか、花が咲くのはあたりまえだという人もある。
 夕焼けが美しいなあ、そう感じる人と、夕方になって空が赤くなるのがあたりまえだという人と。
 人生、情緒がなかったらわびしいですよ。
朝のみそ汁にひょいとナスなどが入っている。ハア、秋になったなあ。あるいはナスの、あの紫紺の漬けものをみて、ああ、きれいなナスだと思って食べるのと、なんだ、漬けものはしょっぱいのがあたりまえだと思って食べるのと、朝のお膳に向かったときの気持ちが違いますねえ。三つ葉がちょっと入っているのをみて、ああ、いい三つ葉だというのと、何も感じずズルズル吸ってしまうのと、違いますねえ。
 秋になると、秋の松茸ごはん、春になったら野の山菜。季節季節によっていろんなものがお膳の上にのぼってくる。
 壷中に四季あり。壷の中に四季があるように、座っていても四季の変化がある。台所から四季の変化が出てくる。春になったら春のものが、夏になったら夏のものがひょいとお膳を飾る。
 秋になったら栗めしが出てくる。なんかしらんが、春秋の爽やかさが部屋にすうっと入ってくる。
 そういう家庭生活と、年中、豆腐とねぎのみそ汁ばかり食わされているのと。壷中に四季あり、じゃない。壷中に豆腐ありだ。(笑)
 こういう情緒、人を憐れむ気持ち、これも情緒だ。
 人を愛する気持ち、これも情緒だ。
 自然を見る心、これも情緒だ。
 日常生活の中にフワッと木犀みたいな匂いが立ちのぼってくるという日常生活のあり方、こういうのも情緒ですねえ。
こういうのは、何を見、何を聞き、何を読んだか、こういうものが重なり重なり重なって、ひとつの美しい情緒になるんです。

この本は1991年に発行されましたので、椋さんが講演会で語ったのは少なくとも1991年か、それ以前と考えられます。それにも関わらず、「夕焼け」「木犀(金木犀と銀木犀の総称)」など、フジファブリックの楽曲を思い起こさせる言葉がこの短い文章の中にもいくつか出てきます。

次回に続きます。

今日の一曲は、「黒服の人」です。
「今の厳しい寒さの中、聞いたら情緒があるだろうな。」と暑いタイで想像を巡らせています。(31:45から「黒服の人」が始まります。)


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