今年も12月24日になりました。
あの日から6年の月日が流れ、富士吉田の街の様子もずいぶんと変わりました。
2015年3月から、富士急行線でもSuicaが導入されることとなり(詳しくは、富士急行「富士急行線でSuicaサービス開始」)、フジファブリックが富士五湖文化センターで凱旋ライブを行った2008年5月当時、月江寺や下吉田駅で使われていた「裏が銀色のやつじゃなく」「『かちっ、かちっ』っと切る」趣あるあの切符も、もうみかけなくなってしまいました。
そういえば富士山山開きの日、富士吉田駅が富士山駅に駅名を改称しましたが、それも2011年7月1日のことでした。
今月4日、忠霊塔のある新倉浅間公園では、新たに展望デッキと転落防止柵が設置されました。(「忠霊塔裏に展望デッキ 浅間公園」山梨日日新聞2015年12月4日付 記事)近年増えている外国人旅行者に対応するためだということですが、近所のお年寄りや野球部の子供たちが行き交う静かな場所が、今では各国の言葉が飛び交うマルチエスニックな観光名所となりました。
志村くんが現在の忠霊塔を見たら、どんな顔をするのでしょう。
今日は富士吉田に、チャイムを聞きに行ってきました。
今年の3月27日に、富士吉田市と富士河口湖町をつなぐ新倉河口湖トンネルを含む「吉田河口湖バイパス」が開通し、甲府の実家から富士吉田まで以前は1時間かかったところ、今では45分程で行けるようになりました。富士吉田から富士河口湖町への渋滞解消と、富士山噴火時の避難・災害普及支援の目的で作られたそうです。
甲府から吉田がまた少し近くなって、私にとって今年の嬉しい出来事のひとつでした。
大々的に県内ニュースとして取り上げられたものから、路地裏を歩いていて気付く小さな変化まで、富士吉田の街も少しずつ変わっていっています。志村君が知らない地元の話も、結構増えたのかな・・・。
でも、いつでもそこには変わらない富士山があります。
富士ファブリックにも、フジファブリックにも、富士吉田にも、いつもそこには変わらない富士山。
多くの山梨県民にとって、富士山とは「いつもはあまり意識することはないけど、突然存在感を増すもの」ではないかと思います。
この土地で生まれ育った私たちは、小さい頃から日常の風景に溶け込んでいる富士山を、普段はあまり意識することなく過ごしています。それが或る時、富士山の存在に気づかされるのです。
病気で苦しい時。
大きな決断をした時。
山梨を離れた時。
帰郷した時。
大好きな家族を失った時。
その思いは人さまざまで、時によって富士山への想いも変化しますが、富士山は変わらずいつもそこにいてくれます。頭に雪を被った白い富士山も、左肩に明かりを灯す青い富士山も、いつも変わらずそこにいてくれます。
そして私にとって、フジファブリックの音楽は富士山と同様、いつでも変わらずそこにいてくれるものであります。「富士山=志村君と思っています。」というメールをファンの方から頂戴することがありますが、まさにその通りです。
今日は雲が多く、残念ながら富士山は見えませんでしたが、フジファブリックと志村君に富士山を見た2015年12月24日でした。
あの日から6年の月日が流れ、富士吉田の街の様子もずいぶんと変わりました。
2015年3月から、富士急行線でもSuicaが導入されることとなり(詳しくは、富士急行「富士急行線でSuicaサービス開始」)、フジファブリックが富士五湖文化センターで凱旋ライブを行った2008年5月当時、月江寺や下吉田駅で使われていた「裏が銀色のやつじゃなく」「『かちっ、かちっ』っと切る」趣あるあの切符も、もうみかけなくなってしまいました。
そういえば富士山山開きの日、富士吉田駅が富士山駅に駅名を改称しましたが、それも2011年7月1日のことでした。
今月4日、忠霊塔のある新倉浅間公園では、新たに展望デッキと転落防止柵が設置されました。(「忠霊塔裏に展望デッキ 浅間公園」山梨日日新聞2015年12月4日付 記事)近年増えている外国人旅行者に対応するためだということですが、近所のお年寄りや野球部の子供たちが行き交う静かな場所が、今では各国の言葉が飛び交うマルチエスニックな観光名所となりました。
志村くんが現在の忠霊塔を見たら、どんな顔をするのでしょう。
今日は富士吉田に、チャイムを聞きに行ってきました。
今年の3月27日に、富士吉田市と富士河口湖町をつなぐ新倉河口湖トンネルを含む「吉田河口湖バイパス」が開通し、甲府の実家から富士吉田まで以前は1時間かかったところ、今では45分程で行けるようになりました。富士吉田から富士河口湖町への渋滞解消と、富士山噴火時の避難・災害普及支援の目的で作られたそうです。
甲府から吉田がまた少し近くなって、私にとって今年の嬉しい出来事のひとつでした。
大々的に県内ニュースとして取り上げられたものから、路地裏を歩いていて気付く小さな変化まで、富士吉田の街も少しずつ変わっていっています。志村君が知らない地元の話も、結構増えたのかな・・・。
でも、いつでもそこには変わらない富士山があります。
富士ファブリックにも、フジファブリックにも、富士吉田にも、いつもそこには変わらない富士山。
多くの山梨県民にとって、富士山とは「いつもはあまり意識することはないけど、突然存在感を増すもの」ではないかと思います。
この土地で生まれ育った私たちは、小さい頃から日常の風景に溶け込んでいる富士山を、普段はあまり意識することなく過ごしています。それが或る時、富士山の存在に気づかされるのです。
病気で苦しい時。
大きな決断をした時。
山梨を離れた時。
帰郷した時。
大好きな家族を失った時。
その思いは人さまざまで、時によって富士山への想いも変化しますが、富士山は変わらずいつもそこにいてくれます。頭に雪を被った白い富士山も、左肩に明かりを灯す青い富士山も、いつも変わらずそこにいてくれます。
そして私にとって、フジファブリックの音楽は富士山と同様、いつでも変わらずそこにいてくれるものであります。「富士山=志村君と思っています。」というメールをファンの方から頂戴することがありますが、まさにその通りです。
今日は雲が多く、残念ながら富士山は見えませんでしたが、フジファブリックと志村君に富士山を見た2015年12月24日でした。