Wednesday, 16 May 2012

お客さんと噺家

久々の更新です。
この10日の間に、バンコクはすっかり雨季に入ってしまいました。猛烈な暑さから解放されて嬉しい反面、また昨年のような洪水に見舞われたら・・・、と不安な季節の到来です。
5月14日の空の写真です。
右奥に見える夕日と雨空の美しいコントラスと、時たま光る稲妻。「人間よりもっともっと大きい存在があるんだよ」と忘れがちな私たちに、教えてくれているようでした。


さて、今日のトピックは「客と噺家」。フジファブリックのことを紹介するブログに、なんだか合わない題のようですよね。
この10日間、たっぷりの時間の中で色々なことに考えを巡らしていました。そんな中、考えたことを今日は書いてみようと思います。

私事で恐縮ですが、私は小学生の頃からなぜか落語がお気に入りで、よくきいています。数いる噺家さんの中でも大好きな柳家小三治さんがおっしゃっていた言葉を、思い出しました。

小三治師匠は、桂三木助師匠(三代目)の演ずる「芝浜」を評して、このように言っています。

「あの方の芸は私にはよくわからない。芝の浜で空を見てる時(そういう場面が噺の中にでてくる)、『何か青いような、紫のような』って、景色を細かく説明する。あそこが私は大嫌い。一々説明するのは違うよって感じてました。」

「この頃の客は説明しないとわからない、ってのも知ってますよ。だけど、そこまで私は自分を偽りたくない、客をばかにしたくない。」

「同じ場面が可楽師匠だと、煙草の煙をフウッと吐いて「白んできやがった」って言う。それだけ。こ~れが素晴らしい。『ああ、白んできやがった」って言った時、それぞれのお客が自分の知ってる空の色を、明るさにしろ、その段階、グラデーションにしろ、何しろね「ふわっ」って想像できるとしたら・・・・・。」

「私は『お客さんそれぞれの持っている、いろんなイメージを呼び起こすのが落語だ』と思ってますから、わかんない客はわかんないで置いてっちゃえばいいんです。その代わり、何年かたった時、「へえ、こういうことだったのか」ってわかる喜びが、落語にはありますから。」

どうでしょう。
「お客さんと噺家が一緒になって、はじめて落語」と、小三治師匠はよくおっしゃいます。

前回の記事でとりあげた「ふるさと」にある「言語性普遍性」にも、かなり共通していると思いませんか。

フジファブリックの魅力の一つは、聴き手によってそれぞれの味わい方ができるということだと私は常々思っています。各楽器の奏でる音やその重なり方、歌詞など、聴き手がそれぞれの思いを膨らませて聴くことができるようになっています。それに加えて、志村君が「本当に伝えたかったこと」も伝わってくる。



落語とフジファブリックの音楽。

落語は四季折々の噺を、その季節に合わせてすることも多いため、季節を感じるために寄席に足を運ぶお客さんも多いのです。
日本の伝統芸能とフジファブリックは、こんな点でも共通しているのかな、と思います。

小三治師匠のおっしゃる「最近のお客さんは想像力が乏しい」というのも、真実です。人間国宝の噺家が落語を演じても、結局お客さんの想像力が乏しければ、おもしろくもなんともないわけですから。

フジファブリックの音楽も、同様のことがいえるような気がします。
聴き手が想像力を働かせ、自分の思い出や感情を投影できるからこそ、最大限の楽しみ方ができるロック。それがフジファブリックの味わいでしょう。

これからも「膨らませることのできる想像力」を養いながら、いろいろなことを楽しみ、経験をつんでいきたいですね。

今日の一曲は「Hello」です。
「遠くにいる君まで 届けられたら良いな
歌うよ君の方へ 届けられたら良いな」


そしてもうひとつ。
柳家小三治師匠(放送演芸大賞、芸術選奨文部大臣新人賞、紫綬褒章など数々の賞を受賞)の噺「小言念仏」。短い噺ですが、想像力をかきたてる師匠の芸が光る一品です。

「古臭い」「年寄りの娯楽」「退屈」「今の時代とかけ離れすぎ」

などの印象を落語におもちの方は、一度ぜひ聴いてみてください。まくらの後、3分過ぎぐらいから始まります。

客に媚を売らない芸風、ぶっきらぼうな口調、男の哲学を追求し「卑しき心の者は、噺家になるべからず」という柳家の考え方など、なんとなく志村君とダブってしまうんですよね・・・。

今日は自由に思いのまま、書かせて頂きました。



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